『やさしい禅の教科書』松原信樹
【著者】松原信樹(監修)
【出版社】新潮社
作者の松原信樹さんは1971年生まれ。
東京都港区にある龍源寺の住職(本を書いた当時)。
臨済宗。
基本的な禅の言葉、禅の歴代の名僧といった禅の基本から、生活に即した禅を学べる本です。
本を読んで、気になったことをまとめてみます。
禅の歴史
お釈迦さまに始まる仏教のなかで、ひとつの大きな流れとなった教え
インドにおける達磨(だるま)大師に受け継がれ、6世紀前半に中国に伝来。
日本には鎌倉時代の明庵栄西が臨済の禅をもたらした。
以後、栄西に少し遅れて永平道元が曹洞宗をつたえた。
今日においては、臨済宗と曹洞宗が日本の禅宗におけるふたつの主流となっている。
臨済宗と曹洞宗が主流だということを知りました(笑)
お葬式のときぐらいしか宗派を気にしたことがないので、宗派自体も、自分にはなじみのない感じです。
身のまわりの禅の言葉
日常生活の中での言葉や行動が「禅」の教えて結びついていることも多く、そこには、もっと奥深い意味があったりします。
例えば「沈黙」
「ひとつのものを説明するのに、他のもの(言葉)をもってきたのでは、それは真実ではない。」と語った禅僧がいます。
禅の教えでは、実体験を大切にして、いたずらに空語(くうご)を弄することを良しとしません。
座禅をする禅堂、食事をする食堂(じきどう)、用便をする東司(とうす)または浴室では談笑や談話が禁じられています。
沈黙そのものが大切な修業のひとつになっています。
言葉にしたとたん、真実から離れてしまうという経験はよくあります。
もっとおもしろいことだったのに。
もっとおいしいものだったのに。
もっと素敵なできごとだったのに。
自分の口から言葉がでると、一気にその感動が消えてしまう。
言葉では伝わらないことを無理に話さなくてもよい、ということだと思います。
「話して後悔するならば、話さない方が良い」ということを、若いころに村上春樹さんの小説で読んだのを思い出しました。
禅がはぐくんだ 茶道
茶の祖といわれる村田珠光は、「柳は緑、花は紅(くれない)」(ありのままのことをありのままに見る)という禅の心が茶の心とした。
これが、「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて、飲むばかりなるものと知るべし」として千利休に引き継がれる。
茶道をたしなむなら、禅の心得は不可欠なもの。
お稽古でも、お茶会でも常識として禅の言葉や教えが語られたりしますし、茶道具でも禅の言葉をモチーフにしたものが多くあります。
禅の修行
「十牛図(じゅうぎゅうず)」は、禅の修業を10枚の絵であらわしています。
「牛」つまりは、本当の自分(だれしもが持っている仏性)を探し求める話です。
第1図「尋牛」じんぎゅう
ひとりの童士(自己)が見失った牛(本来の自分=仏性)を探している。
第2図「見跡」けんせき
童士が牛の足跡発見。自分とは?の手がかりをみつける。
第3図「見牛」けんぎゅう
牛のお尻が見える。本来の自分が垣間見える。
第4図「得牛」とくぎゅう
童士、牛を見つけ、捕まえるがなかなかうまくいかない。本来の自分に気づいても、それを真の自分にするのは難しい。
第5図「牧牛」ぼくぎゅう
童士はついに牛を飼いならしました。が、油断をすると煩悩がわきおこり、本来の自分は見失われるかも。
第6図「騎牛帰家」きぎゅうきか
童は牛に乗り家に帰る。牛を飼いならしました。(本来の自分と一体化)
第7図「忘牛在人」ぼうぎゅうそんじん
本来の自分を見つけた童士。牛(悟り)すら忘れてくつろぐ。悟りを得て、次に「利他(りた)」の道をいくまでの修業。
第8図「人牛俱忘」じんぎゅうぐぼう
牛も童士の姿なし。ただの円相(えんそう)が、自他の区別なく「空」の境地を表す。
第9図「返本還源」えんぽんげんげん
根源へ還れば、ありのままの真実が見える。
第10図「入鄽垂手」にってんすいしゅ
真に悟りを得た童士が立派になっています。鄽とは市井のなかのことで、人へ仏の教えを伝えるべき旅に出る姿。
私は、茶道のお稽古のときに「十牛図」をモチーフにした茶碗を使ったことがあります。
お稽古で見たの茶碗の絵は「騎牛帰家」のシーンでした。
牛年(うしどし)のお正月に使ったので無知な私は、「牛にかわいらしい男の子が乗っているな~。牛年の茶碗かな~」しか感じませんでしたがその時に茶道の先生に「十牛図」を教えてもらいました。
この茶碗の絵をすぐに「十牛図」の一つのシーンだとわかるとかっこいいですね~。
ちょっと大人になった今、これからの人生のちょっとしたときに、この「十牛図」を思い出しながら「自分とは何か?」を考えてみるのも必要だな~と感じます。
名僧について
●永平道元(えいへいどうげん)1200~1253
曹洞宗。山城国生まれ。永平寺で曹洞宗を広めた。
●盤珪永琢(ばんけいようたく)1622~1693江戸前期
臨済宗の僧。生涯平易な言葉で「不生禅」((生きるという意識が芽生える)分別前のありのまま)を説いた。
●白隠慧鶴(はくいんえかく)1685~1768江戸中期
臨済宗。駿河国で生まれる。迫力と禅味に満ちた書画作品も多い。
●仙厓義梵(せんがいぎぼん)1750~1837江戸時代
美濃国生まれ。洒脱かつ深遠な「禅画」を多く残した。
●大愚良寛(たいぐりょうかん)1758~1831幕末
曹洞宗。越後国生まれ。詩歌と書をよくし、清貧闊達の生涯を送った。
名前ぐらいは知っておきたいです。
禅の心得を描いた作品は何も知らないと、ただの丸の絵だったり、意味不明の「なんじゃこれ?」で終わってしまいます。
そこに書かれている禅の心得を上手く読みとれるようになりたいです。
現時点では、禅の絵なんだということぐらいがわかります。
私、格段に進歩してます!
まとめ
『やさしい禅の教科書』はわかりやすい文章なんですが、禅語やらなんやらで漢字が多くて、けっこう読むのに疲れました。
これも修業ですかね?
「禅とは何か?」なんて、簡単にわかるものではないようです。
今のところは、本当の自分(うまれもった仏性)を知ることを追求していくことが禅で、それを手助けしてくれるヒントのようなものが禅の教えなのかなという風に感じています。
それにしても、「仏性」は、生まれて持っていたものなのに今は持っていない?(見つけられない)なんて不思議なものです。