『心配事の9割は起こらない』枡野俊明
本を読んで、気になったことをまとめてみます。
莫妄想(まくもうぞう)
想像することなかれということ。
心を縛るもの、心に棲みついて離れないものは、すべて「妄想」。「あれが欲しい」という我欲、「これを手放したくない」という執着。他人がうらやましいという気持ちも、自分がダメだという思いも、実はすべて妄想。
人間であるかぎり、心のどこかに妄想あって致し方なし。大切なのは「妄想」をできるだけ減らしていくということ。
そのためには、自分という存在は「絶対」であって、他とは比べようがないということを知っておくこと。比較できないものを、比べようとするから、余計なこと無駄なことがまとわりつく。
我欲に対しては完全に「妄想」に負けている自分を実感しています。
あの人の持っているもの着ているものが、素敵(ここまでは感じるのはいいんだけれども)、さらに負けずに自分も欲しいとか 、負けずに自分も新しい素敵なものを買わなくちゃ。とか思ってしまう自分がいます。
自分が本当に必要なのか、本当に欲しいものなのかをしっかり考えて「妄想ではない」と判断できるようになりたいと思います。
「冷暖自知」れいだんじち
見ているだけでは水の温度はわからない。実際に飲んでみる、さわってみること以外に「冷暖」を知る手だてはない。考えるより動くことが大事
体感することが、自分にとって正しい判断ができて、行動もついてくる。知識だけでは「ものさし」をもつことはできない。
本を読むだけでは、ダメだということ。若いころにビジネス本を読んで、仕事ができる人になったような気になったことを思い出します。
知識はあってもいいけれど、それを実行しないと何も変わらないことを、いつも覚えておきたいです。
「本来無一物」ほんらいむいちもつ
人間は、本来なにひとつ持たずに生まれてきたのだ、それが人間本来の姿なのだから、執着するものなどどこにもない。という意味。
なにかを失った時。本来に姿に戻っただけとかんがえる。
何かを無くした時、今までいた人がいなくなった時は大きな喪失感を感じます。なんで無くなってしまったんだろう、どうしてダメだったんだろうとか。心にずっと住みついて離れない気持ちがモヤモヤして。
でも、この考えのとおりもともとは無かったもの、持っていなかったもの、いなかった人と考えれば、気持ちが楽になります。無かった時の自分がきちんと存在していたのですから。
「平常心是道」びょうじょうしんこれどう
いつも穏やかな心で、静かな心でいる大切さ。心の振れ幅をちいさくしなさい。
頭にカッと血がのぼることがあったら、まずは呼吸です。
怒り対策として、なにか「呪文」をもっておくといいかもしれません。
せっかちで怒りっぽい私は、呪文を考えました。マイ呪文「まあ、まあ、まあ」です。小声で呪文を唱えると、空気を吐き出し自然に呼吸ををすることになりますので、気分を落ち着かせるのに役立ちそうです。
さっそく隣の家(部屋)の足音やら生活音がうるさいことに対しても「まあ、まあ、まあ」で乗り越えます!
「正論」をふりかざさない
相手の顔もたてる
どんな考え方も、意見もあっていいのだ、と受け止めてこそ、相手に「度量」をかんじさせるというものです。
相手をとことんやり込めたあとに待っているのは「むなしい征服感」です。
「そんなことも知らないの?」「今までどうやって生きてきたの?」と先輩たちや上司に対して常に感じていた、イヤ~な若者だった私を今振り返って、若いころの私に言ってあげたい言葉です。
自分が正しいことがすべてではないということ、自分の思い通りには生きられないことを早いうちに知っておくと生きるのが楽になると思います。
「小欲知足」しょうようちそく
欲を少なくして、足るを知る。
足ることを知っている人は、たとえ地べたに寝るような生活をしていても、心は安らかで、幸せを感じている。
しかし、足ることを知らない者は、天上の宮殿のようなところに暮らしていても、満足ということを感じられない。足ることを知らない者は、どんなに幸福であっても、心はいかにも貧しい。」
我欲を少なくするためにも、心に住まわせたい禅語です。今の私は、この言葉を思い出して「そうそう」と自分に言い聞かせることができる程度ですが。
まとめ
枡野俊明『心配事の9割は起こらない』を読んで禅が生活に役立つのではと思いました。
修業をしていない私も禅の教えを通して、毎日の生活を見直してみることができ、それが、困ったとき悩んだ時の解決の糸口にもなるのではないか。
いつか、禅の教えが体に心に染みつくような生き方ができるようになりたいです。
それにしても、結局は、人間なんて昔からだれもが、同じように考えて、欲を持ち、同じようなことで悩んだり、困ったりしているのだな~と思えたことがおもしろかったです。